現実主義者とつきあう道

このところずっとポッドキャストオバマ大統領のスピーチを聴いている。彼の演説は大統領選のあいだも聴いてきたが、大統領職に就いた後彼の発言がどのように変化するのかに興味があった。それにもう一つ。日本の(ばかりではなく欧米の)ニュースで伝えられる大統領の発言は、きわめて断片的でメディアの主観が挟まっているので、発言の真意がつかみにくい。幸いホワイトハウスは毎日のように大統領のスピーチをアップロードするので、生の発言を追いかけることが出来る。
前任者と比較すると、ブッシュが良くも悪くもイデオロギーの人間だったのにたいして、彼は「チェンジ」を掲げて当選したが、きわめて現実的な考えをする人間だ。彼のいう「グリ−ン・ニュー・ディール」には核エネルギーは含まれていないが、原発を頭から否定するようなかたくなな姿勢はない。ブッシュが「悪の枢軸」論や温暖化問題への後ろ向きの姿勢で、国際的に孤立を深めたのとは対象的だ。医療制度改革についても、既存の民間医療保険の枠を温存しながら、公的関与を強めて皆保険を実現しようという方針のようだ。
問題はこの冷徹な現実主義者とどうつきあっていくかにある。さすがに一時の「アンクルトム」論は影を潜めたようだが、現実主義者であり、核超大国の最高指揮官である彼が、「核のない世界」「朝鮮半島の非核化」を口にし、イランとの和解を呼びかけているのは注目すべきものだと私は思う。少なくとも隣国をあしざまにけなすことでしか自己の存在価値を誇示できない一部の人より、よほどつきあいやすいと思うのだが。

パンドラの箱は開かれた

昨日改正臓器移植法衆議院を通過したというニュースが出ていた。私は「臓器交換社会」という本の日本における最初の読者の一人だったし、この本を出版社に熱心に売り込んだのも実は私だった。この本はアメリカの臓器移植と人工臓器の現状をきわめて批判的に分析したものだ。どちらかと言えば臓器移植法には懐疑的と思われているはずだが、先輩の医師グループから今回臓器移植法改正反対の署名が回ってきたとき、私はその動きにもついて行けなかった。
臓器移植を推進すれば、きわめて逆説的だが、(臓器移植の適応が拡大されることを通じて)臓器移植を待ちながらなくなる方は増えこそすれ減ることはない。移植という手段は臓器不全の治療の決定打にはならないことは、移植医療の先進国=アメリカでの経験からも明らかである。しかし、すでに臓器移植という医療技術が出現して半世紀以上になるとき、今更この技術を封印して<なかったことにする>ことも、現実問題としてできることではない。「臓器交換社会」の原著者と以前東京の講演会でお目にかかりこの質問をぶつけたとき「自分もそう思う」と同意していただいたことがある。
それにしても反対派のある方の発言はあまりに傲慢だと言うしかない。

「国会議員一人ひとりが熟慮し、理解した上で採決に臨んだか疑問に思う。採決を優先した国会の議会運営に強く抗議する」
人の死に直結する法案の審議を軽々とするはずがない。自分の意見に反する態度をとった人間をもの知らずというのは、いくら怒りにまかせた発言とはいえとても容認できるものではない。臓器移植というパンドラの箱はすでに開かれた。後はその先にまつ暴走をいかに食い止めるかにかかっていると私は思っている。そこでのキーは寛容さだと思う。

外れものになるとも、はぐれものにならない

昨日金子光晴絶望の精神史を読んだ。戦時中反戦反軍を貫き、戦後は浅薄な民主主義擁護者にならなかった詩人の自叙伝だ。大政翼賛会の文学版である日本文学報国会に転向した左翼文学者が雪崩を打って参加していった(壺井栄中野重治など)のを尻目に、一貫して非協力を貫いた。息子の徴兵を忌避するために無理矢理喘息発作を引き起こして診断書を手に入れた下りなどは、鬼気迫るものがある。報国会に非協力を貫いた文学者では、ほかに永井荷風などがいるが、荷風が「墨東綺譚」などを表して現実から遠ざかっていったのとは対象的に、戰争の現実に常に気を配っていたことは特記されていい。オペラの歌ではないが

風の中の羽のようにいつも変わる
人の心を追いかけてはぐれものにならないで、流行から外れても自分の好きなように生きていたい。

夏の終わりはジャズ三昧

先週の土曜日は午前中ノートの前から離れられなかった。朝の10時から東京JAZZの予約が開始になって小一時間は、何度クリックしても全くアクセスできなかった。ようやくつながったと思ったら、いい席はもう売れ切れで、土曜の通し券も完売していた。それでもバラで金曜の午後と土曜の午前午後を購入。日曜の券は先行予約の時に手に入れていたので、3日間は聴くことができるようになった。舞台に近い方がよく見えるが芝居ではないし、生の演奏が楽しめればいいこと。去年も予約してホテルも航空券も手に入れていたのに急な用事でいけなかった。今年こそはなんとしてでもいくぞ。どっぷりジャズにつかってこようと思う。

「新型インフルエンザ」を総括する

神戸市長のひとまず安心宣言でようやくインフルエンザ騒動も終熄に向かいそうだ。ネット上では相変わらず「新型インフルエンザ=陰謀」論が出ているが、なかには責任を負った政府の要人にそうした世迷い事を言う方がいるから困る。最近では「エイズの原因はHIVではない」といい、抗HIV薬の普及を妨げた南アフリカの例もあり、笑ってばかりもいられない。
一連の騒動からはやはり日本政府の危機管理能力のなさと、パニックを醸成するマスコミのセンセーショナリズムが明らかになった。
今回のインフルエンザは「新型」とは言うが、世界の専門家が準備し、対策を練ってきた鳥インフルエンザ由来の毒性の強い新型インフルエンザではない。私は当初真打ちが登場する前の予行演習でいいのではないかと思っていたが、厚労省官僚の過剰反応で世間があらぬ方向に動いてしまった。
メキシコに限定されていた患者が周辺国でも確認されたとき、厚労省がとったのは水際作戦。これはあくまでも国内に流行が及んでいないという前提で行われるものだ。この前提がおかしい、間が抜けていると私は思った。しかも空港に出てきた厚労省の職員が着てきたのが、エボラ出血熱SAASかと思うような防護服。対象となる病原体の毒性に対して全く意味のないことに税金が使われてきたことを、マスコミがきちんと指摘すべきだったが、逆に厚労省の情報操作を増幅させたのがマスコミだった。関西で患者が確認されたニュースを病院前で伝えたレポーターが、当然とでも言うようにマスクをしていたのを私は暗い気持ちでみた。揚句に起こったのが患者たたき。ようやく最近になってインフルエンザ流行時にマスクに感染防御の効果がないことを実証するテレビ番組も出てきたが、昔々のエイズパニックを経験するものとして、20年以上たって何も変わっていないことに暗澹たる思いがする。

こう書いた直後メモリアル・キルト・ジャパンから会報が届いた。そこにはこう書いてあった。

「九州薬害HIV訴訟」原告団は21日、新型インフルエンザを巡る行政の対応や報道について「エイズパニックを思い起こさざるをえない」として、感染力や毒性を正しく評価した冷静な対応を求める緊急アピールを厚生労働省や報道機関に送付した
まさに我が意を得たりと言うところだ。

早めに夏の予定を

今年の初め夏にバリ島に行く計画を立てていた。遊びではなく勉強にだ。アジア太平洋エイズ会議という二年に一度の国際学会がバリ島であるので、<世界の空気を吸い>にいきたいと思っていた。しかしいろいろな事情で何日間も仕事場をあけるわけにはいかなくなった。かわりに今年も横浜のエイズ文化フォーラムにいこうと思っている。ボランティア団体による手作りの集まりだが、エイズという問題を、医療という側面からだけでなく、広い視点からとらえようという趣旨で開かれている。私も参加するたびに新しいことを学び勇気をもらってくる。今年はバリ島の会議と日程がかぶっているので、参加団体に影響が出るかもしれない。
もう一つは9月の東京JAZZ。去年は直前に体調が悪くなって泣く泣く断念したのだが、今年こそいくぞ。本当は野外コンサートの方が好きなのだが、東京JAZZ以上のプログラムはなさそうだし、上原ひろみやマンハッタン・ジャズ・クインテットなど好きなミュージシャンもおおく出るので、ここは外せない。

壁の越え方

昨日思い切ってダンベルを5キロから7キロに変えてみた。サイドレイズと言ってダンベルを肩の高さまで持ち上げる運動以外は、5キロのダンベルでは利かなくなってきた。特にコンセントレーション・カールは120回やってもまだまだ続けられる感じになっている。このままではただ筋力を維持するためだけにやっているようなもので、やせる方向には働かない。ダンベルの重さを増やすのは、一つ間違えると大けがをしそうでおっかなびっくりだったが、やってみるとまだまだ余裕がありそう。それでも10種類のメニューをこなすと、さすがに汗びっしょりになる。筋力をつけるためには、持ち上がるか持ち上がらないかぎりぎりの負荷のかかった運動を、数少なくやるのがいいと書いてある。今の印象では10キロはいけそうに思う。
限界を感じたらやり方を変えるしかない。状況は自分に都合よくは変わってはくれないという当たり前のことを再認識させられた。世の中の見えない壁もどうにか乗り越えたいと思うのだが。