パンドラの箱は開かれた

昨日改正臓器移植法衆議院を通過したというニュースが出ていた。私は「臓器交換社会」という本の日本における最初の読者の一人だったし、この本を出版社に熱心に売り込んだのも実は私だった。この本はアメリカの臓器移植と人工臓器の現状をきわめて批判的に分析したものだ。どちらかと言えば臓器移植法には懐疑的と思われているはずだが、先輩の医師グループから今回臓器移植法改正反対の署名が回ってきたとき、私はその動きにもついて行けなかった。
臓器移植を推進すれば、きわめて逆説的だが、(臓器移植の適応が拡大されることを通じて)臓器移植を待ちながらなくなる方は増えこそすれ減ることはない。移植という手段は臓器不全の治療の決定打にはならないことは、移植医療の先進国=アメリカでの経験からも明らかである。しかし、すでに臓器移植という医療技術が出現して半世紀以上になるとき、今更この技術を封印して<なかったことにする>ことも、現実問題としてできることではない。「臓器交換社会」の原著者と以前東京の講演会でお目にかかりこの質問をぶつけたとき「自分もそう思う」と同意していただいたことがある。
それにしても反対派のある方の発言はあまりに傲慢だと言うしかない。

「国会議員一人ひとりが熟慮し、理解した上で採決に臨んだか疑問に思う。採決を優先した国会の議会運営に強く抗議する」
人の死に直結する法案の審議を軽々とするはずがない。自分の意見に反する態度をとった人間をもの知らずというのは、いくら怒りにまかせた発言とはいえとても容認できるものではない。臓器移植というパンドラの箱はすでに開かれた。後はその先にまつ暴走をいかに食い止めるかにかかっていると私は思っている。そこでのキーは寛容さだと思う。