「暴力批判論」(太田昌国著)を読む

きのう当直で眠れないままに「暴力批判論」を読んだ。著者は私のおおよそ一回り上だが、問題意識のかなりの部分を共有できていると思っている。今回も多くのことを教わったし共感できた。彼の視野にあるのは連合赤軍や9.11などに象徴される「民衆の対抗暴力」の悲劇的なまでの腐敗だ。何よりその当事者が、自らの腐敗に気づかないどころか、己がたてた「大義」に酔っている点できわめて深刻である。
もちろん、最近でいえばパレスチナで行われた選挙の結果を受け入れることを拒否し、パレスチナを事実上の分裂状態においた超大国が、自らの意に沿わぬ政権を次々に葬むってきたこと、強大な軍事力と(やや疲弊したとはいえ)圧倒的な経済力を持っている現状を考えれば、非暴力の抵抗運動に果たしてどれだけの期待ができるかは大いに疑問だ。私も連合赤軍の悲惨な末路を眼の前にして、思考停止になった記憶を鮮明にもっている。しかし現実はそうした思考停止を許さない。
最近サルトルの「実存主義とは何か」を読んでいるが、その中に1944年パリ市民がナチに抗して立ち上がった「パリ蜂起」をきわめて肯定的に扱っている短文があった。確かに運動の高揚期は一種独特の解放感やカタルシスがある。しかしそれは多くの場合持続しない。それどころか民衆運動の中に潜む陰謀家や権力亡者の存在が、運動そのものを腐らせていく。もう私たちは「パリ蜂起」には戻り得ない経験を積んできたといえるだろう。南米の民衆運動を題材に<自制する非暴力運動>を著者は目指しているように思える。私も様々な疑問や保留をつけながら、国家の暴力に対抗するにはそれ以外の道がないことを認める心境になってきている。