共感の軸

以前から読んでおきたいと思っていた中西準子さんの「環境リスク学」(日本評論社)を読んだ。名前は一昔前、私がまだ「週刊金曜日」とそこに群がっていた自称「環境問題評論家」のほらに対抗して議論をやっていた頃、あるサイトを通じて知ったが、もちろん一面識もない。その当時からダイオキシンや所謂「環境ホルモン」(ほとんど死語に近い)についてバランスのとれた主張をする方だと記憶していた。
第一部、第一章は横浜国立大学での最終講義で自伝のような形になっている。年齢は1938年生まれというから私とちょうど一回り上。父親があの中西功、といってもこの名前を知っている人はよほどの物好きしかいないだろう。日本共産党の50年問題で党を除名された中国派の論客。親の影響もあったのだろうが、中学校の頃からマルクス主義の文献に親しんでいた彼女が、戦後勃興した化学工業が人々の暮らしをよくする事実に直面して、マルクス主義に疑問を感じて化学工業科に進学し、その後の研究者としての歩みをスタートされたという。東大の都市工学科の助手になって始めに手がけたのが、下水処理場から排出される重金属の問題。工場排水に含まれる重金属は通常の処理場では除去できない。やっているのはそれを薄めているだけだということをデーターに基づいて解明したら様々な嫌がらせを受けたという。ここらあたりは下手な小説よりおもしろい。
この後中西さんは「環境リスク学」という分野の先駆けとなる。この本を読んでいて納得したことがある。以前予防注射の問題で、ある権威者と議論になったとき、彼が「麻疹で子供が死ぬのは病気だから仕方がないが、予防注射の副反応で子供が死ぬのは許せない」という発言をしたのに、私は「ああ、この人とは住んでいる世界が違う」と思ったことがある。病気の予防にも、それなりのリスクがある。たとえば、健康にいいからとランニングしていて交通事故に遭うことも、骨折をすることもある。予防の利益とは、病気にならないことによる利益というより、病気になって被る不利益から逃れる期待値から、予防することで起こりうるリスクをひいて求められるものだ。このバランス感覚がない人がいわゆる環境問題の活動家というか市民運動家に多すぎると私は思っている。食品などに微量に添加されているアルコールに発ガン性があるから「買ってはいけない」といいながら「本物の日本酒」のおいしさを語るのは漫画だと私は思う。ただ漫画ですまないのが病人が絡んできた場合だ。エイズ問題に取り組んだ当初、私は多くの医療関係者が慢性C型肝炎などの患者の治療に問題を持たないのに、エイズを忌避する態度にぶつかった。これは科学的にリスクを判断するのではなく、自らの偏見におぼれて現実の世界にはありえない100%の安全を要求することだと思った。「環境問題評論家」にも私は同じ「くさみ」を感じた。科学的思考と全く逆な彼らの主張がまかり通るようでは、私たちはいつまでたっても悪質なデマ・キャンペーンに踊らされるだけに終わる。私の知人などは私が「週刊金曜日」とやった<けんか>をあきれ顔で見ていたが、私にはやむにやまれぬ思いがあった。なんといっても当時の私は、HIV感染症の患者さんに、エイズで死ぬか、それとも薬の副作用で苦しむか、という究極の選択を迫っていたのだから。この本の中で中西さんは石田吉明さんの「エイズ撲滅キャンペーンは、まるで自分たちを撲滅されるように感じる」という発言を引用し人の生を評価することの難しさを語っている。
もう一つ、これは父親である中西功に関わることだ。私は彼を「中国派の論客」としか知らなかったが、戦争中は満鐵調査部にいて、膨大な資料から日本が中国相手に戦争することの愚かさを証明して見せたという話がでてくる。「ファクトにこだわり続けた輩」と自らを表する筆者の原点を見たように感じた。