ドライフラワーにはなりたくない

一月半ぶりの日記だ。日頃の生活のリズムが日記を書く時間を作らせないようになっている。朝はかなり早い。今朝も家を出たのが六時二十分すこし前。家に帰ると毎晩晩酌で宴会状態。そのまま寝るというパターン。昼休みに書くというのも気が引けるところでついついさぼってしまった。その上改めて書くようなこともないというか、ネットに出せない話題のほうが多い。
昨日はひさしぶりに福岡をうろうろした。福岡市の中心=天神から海側に十五分程歩くと県立美術館がある。昨日までの日程で毎日女流書道展が開かれていたのでそれを見に行った。小雨がぱらついていたが、傘を差す程でもなし、ぶらぶらと歩いていた。会場のそばにそれほど広くない公園がある。そこの前の道路でわたしと同じ年格好の男女が4人ぐらい、赤信号で道路を横断している。たいして急ぎ足でもないのに何を子供みたいなことをやっているのだろうかと思っていたが、彼らは公園の中にある小さな集会場に入っていった。同じような連中が十人ばかり、どうやら今から集会をやるみたいだが、そろいもそろって頭の白くなった中年から初老の人間ばかり。一瞬わたしは「ホームレスの集会か」と思ったが、彼らにそんな暇もあるはずがない。
書道展のほうは可もなく不可もなしと言うところか。筆をとって二年足らずの人間の生意気なのだろうが、入選作にははっとなるような作品があったが、それ以外はどれもこれも同じような構図と書体でおもしろくなかった。相田みつおという人の書をわたしは個人的には好きではないが、少なくともあれは独創的で個性的だ。そんな出会いがなかったので早々に引き上げた。
帰りしなに集会場のそばを通ると人数は倍になっているが相変わらず若い人間はいない。扇型にベンチが並んだかなめの部分に小さな舞台があるのだが、そこに「中核」の旗があるのが見えた。ひょっとして昔の顔見知りにでも会ったら面倒だ。そこを避けて公園を抜けたが一日いやな気分になった(前の日少々飲み過ぎて腹具合が悪かったこともある)。活動歴30年以上と思われる彼ら。それなりに情熱と信念を持って活動してきて、いまでは世間から忘れ去られた存在になりはてた。それがあのしょぼい集会のさししめすものだ。二年ほど前だか、重信房子が手錠をかけられながらガッツポーズをしているのをテレビで見た時に感じた、言いようのないむなしさ、憤り、恥ずかしさ。それが舞い戻ってきたようだった。 
とっくに死んでいるのに格好だけ残ったドライフラワーみたいにはなりたくないものだ。