変わるもの、変わらないもの

先週の日曜日、3日の日、博多に連れあいと母を連れて出かけた。お目当ては博多人形の専門店。上の娘が生まれた子供に博多人形のおひな様がほしいというので、現物を見に行った。ネットで見つけたというものはちょうど売り切れていたし、思ったほど大きくなかったが、代わりにショーケースに姿のとても美しい立ち雛を見つけた。娘に電話したら任せてくれるというのでそちらを送ることにした。博多人形と言えば伊藤ルイさん博多人形の染色の仕事をされていたことを思い出す。ルイさんには生前一度だけお目にかかったことがある。私がまだ「草の根通信」に連載を載せていた頃で「よく読んでいる」と言っていただいたのを思い出す。お亡くなりになるほんの一年前だったと記憶している。伝統工芸とひと言で言っても、時代時代を生きる様々な人の思いが込められているのだろうと想像するだけだ。
博多人形が大幅に変わるのはいただけないが、もう少し変わってほしいとおもうのが日本人の集団ヒステリーだ。例の冷凍餃子での集団食中毒事件。事件そのものも異常だが、それを扱うマスコミや、世間一般の反応はおかしくないだろうか。
テレビ局はどこもニュース番組で毎日まいにち目新しいこともないのにこの問題を取り上げる。問題の会社とは何の関係もないのに「中国産」と言うだけで冷凍餃子が日本中のスーパーマーケットからなくなる。取引停止で打撃を受けている中国の企業もあるはずなのに、自分たちの集団ヒステリーが何の責任もない庶民を巻き込んでいることに無自覚なのはどういうことなのだろうか。
アメリカ発の景気後退が迫っているというのに「ガソリン国会」なんていう茶番で永田町が右往左往しているというのも、民度の低さなのだろうか。
ああいやだいやだ。