サルトルを遺伝子医学から読み解く

昨年末だいぶ苦しみながらサルトルの「実存主義とは何か」を読み上げた。今年は何とか時間を見つけて滝沢先生のサルトル論をもう一度読み直しながら、二人の理論の共通の基盤とすれ違っている核心を、デカルトのコギトに関わるところから考えてみたいと思っている。
サルトルは本の中で「本質」と「実存」という概念を比較するために、たった今本が手元にないためにきちんと引用できないが、植物は本質が実存に先行するが、人間には実存に先行する本質などというものは存在しないと主張する。また人間は英雄としてあるいは卑劣漢として生まれてくるわけではないとも言っている。
私たちはすでに遺伝子の発現には環境因子が深く関係することを知っている。椰子は種子の段階から椰子として生まれることが決定づけられてはいる。しかしその種子がどこで発芽するかによってどの遺伝子が発現するかが決まってくる。同じ椰子の木から生まれた椰子の実が全く同じ椰子になるわけではない。こうしてきわめて長い時間を前提すれば、環境に影響された個々の生物が環境を変え、結果として種そのものも変えることになる。本質を遺伝情報と、実存をその発現と読み替えれば、植物において本質が実存に先行するというのも必ずしも正しいとは言い難い。
逆の意味で人間も実存に先行する本質が存在しないとは言えない。人間はその時々に自らの意志で何らかの決定をしそれが自らの存在を形作る。それは間違いなくそうだとして、そこには己の意志だけではどうにもならない先験的な環境というものが存在する。もちろん広い意味でそれを形成しているものも人間であるし、それをサルトルが無視しているわけではない。どのような環境におかれようと、人は英雄として振る舞うこともできれば、卑劣漢として振る舞うこともできる。しかしながら親から虐待を受けて育った子供が大人になると、子供を虐待する傾向にあるという事実は、私たちが先験的な環境から完全に自由ではあり得ないことを教えてくれている。これはサルトルが批判するゾラの決定論ではないが、一方で自由の限界というものを無視することもできないとおもうのだが。。